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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(オ)385号 判決 1984年11月01日

上告人 五藤卓雄 ほか五名

被上告人 国

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人菅井俊明、同管野昭夫の上告理由一及び二について

原審の適法に確定したところによれば、金沢大学の医学部学生は、昭和四五年当時においては、科目の試験の受験を申請したのち正当な事由なくして試験期日に欠席した場合には、同一学年中にはその試験を受けることができず、ただ特別の事情のあるときに限り、教授会ないし科目担当教官から再試験の受験を許可されることがあるものと学則等により定められていた、というのであつて、右の定め及びその趣旨に照らすと、右再試験の許否は、科目担当教官等の教育的見地からする裁量に委ねられた教育上の措置であるというべきである。したがつて、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて、同大学医学部の当時の法医学の担当教官が昭和四五年二月及び三月実施の同科目の試験を受けなかつた昭和四一年度専門課程進学学生のうち、他の学生らの右試験の受験に対する妨害等につき謝罪文を提出した者に対してのみ再試験の受験の許可を与え、謝罪文を提出しなかつた上告人らに対しては右許可を与えなかつたことは、右担当教官の前示裁量の範囲内の教育上の措置であつて、所論のように不当な差別ないし懲戒処分又はこれに準ずるものにあたるということはできないから、右措置が不当な差別ないし懲戒処分等にあたることを前提とする所論違憲及び違法の主張は、前提を欠くものというべきであり、右と同旨の原審の判断は、是認するに足りる。論旨は、独自の見解又は原審の認定にそわない事実に基づき原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同三について

原審の適法に確定した事実関係によれば、法医学担当教官が上告人らに要求した謝罪文は、事態の真相を告白し陳謝の意を表明するにとどまる程度のものであつた、というのであるから、かかる謝罪文の要求が憲法一九条に違反するものでないことは、当裁判所の判例(昭和二八年(オ)第一二四一号同三一年七月四日大法廷判決・民集一〇巻七号七八五頁)の趣旨に照らして明らかというべきである。論旨は、これと異なる見解に基づき原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 和田誠一 藤崎萬里 谷口正孝 角田禮次郎 矢口洪一)

上告理由

一 原判決は、憲法第一四条の解釈を誤つているとともに、教育基本法第三条一項および国家賠償法第一条に違背しており、かつこれら法令違背は判決に影響を及ぼすこと明らかといわねばならない。

1 原判決の認定した事実関係によれば、本件において、井上教授は「わび状」を提出した二十数名の者に対し、昭和四六年一月から三月にかけて試験を実施し、「わび状」を書かなかつた控訴人らに対しては試験を実施しなかつた。このように「わび状」提出を試験実施の条件として、「わび状」不提出を理由に試験の実施を拒んだ井上教授の行為は、次の三点において違法であつた。まず第一に、学生ストライキ終了後他の一五科目の試験がストライキ参加の学四生に対して昭和四五年五月から七月にかけて無条件に実施されていることと対比するならば、専ら人の内心の状況によつて不当に差別したものであり、憲法一四条、教育基本法三条一項の平等原則に背反した違法があると言わねばならない。

第二に、井上教授は、同二月二七日の試験当日控訴人らと共に法医学教室の前にいた訴外堀本豊範ら三名に対しては、「わび状」の提出を要求することなく、同年三月初旬に別個の機会を設けて受験させている点も右同様の違法がある。

第三に、昭和四五年二月二七日の法医学の試験実施に際して、上告人ら学四生(昭和四一年学部進学生)と共に、試験場の下に集つていた学三生(昭和四二年学部進学生)に対しても、その后法医学を含む全科目について卒業試験が、「わび状」の提出を要求することなく実施されている。すなわち右同日の法医学の試験場前廊下には、右学三生中のいわゆる革マル派集団が、上告人ら学四生とは別にヘルメツト覆面姿で集合して、彼等独自の集会を開きアジ演説などを行つたのであるが、これら学三生に対しては、ストライキ期間中の授業が繰越実施された后、昭和四六年五月一一日の法医学の試験を皮切りに同年六月一二日までの間に卒業試験がわび状の提出などを問題とされることなく本試験として実施されていた(甲第三三号証)。右学三生に対する措置と、上告らに対する試験実施の拒否とを比較しても両者の間に不当な差別があり、やはり右同様違法といえるのである。

2 ところが原判決は要旨次の判断を示して、この上告人らに対する井上教授の受験拓否は憲法一四条、教育基本法三条一項に違反せず、したがつて国家賠償法一条にいう「違法」性はない旨判断をした。

<1> 教育に際してとられる具体的措置は、各科目担当教官の専門的かつ技術的自律権に一切が委ねられているから、教育措置の内容が、同一学生に対するものであつても、各科目担当教官の個人差はやむを得ない。

<2> 訴外堀本らは、当日受験意思を有して、法医学教室の前までいつたが、騒然としていたため、受験不能と判断して帰つたのであり、これに対し試験を実施しても不当差別とは云えない。

<3> 井上教授が非違行為を行つた者らに対し、その非を諭し、謝罪をすすめたにも拘わらず、これに対して応じない者を右説諭に応じて謝罪した者と区別することは教育的にみて、不当な差別に当たるとみることはできない。蓋し、両者の間には大学教育の目的の一つである道徳教育の面や、法医学の基礎理念からみて重要な差異があるからである。

しかし、この原判決の判断は、憲法一四条、教育基本法三条に照らし明らかに誤つていると言わなければならない。

3 まず、右2、<1>について述べると、各科目担当教官の専門的、技術的自律権はあくまでも各科目の教科内容についての教育専門的判断に関して言えることであつて、本件の如き「事実上の懲戒」(原判決の表現)という、当該科目の教育よりはむしろ大学の秩序維持に関する事柄についてまで各科目担当教官の自律性を肯定することは、きわめて不当と言わねばならない。今日の教育法学でいう「教育措置」とは、当該教科教育の内容及びその評価方法に関する教育専門的措置を指称しているのであつて、それは明確に懲戒処分とは区別される概念である。各教師の有する専門的自律権は、まさに右の教科教育上の教育措置についてのみ認められる事柄であり、大学の秩序維持という教科教育を越えた懲戒的事項については、むしろ各科目担当教官の「個人差」や恣意を排する為に、所定の機関が所定の適正手続により所定の処分を行うべきことこそ要請されてくるのである。

もともと各科目担当教官の専門的かつ技術的自律権とは、教育法学的にはいわゆる学問の自由の一環としての「教授の自由」に由来するものであるが、学校教師に学問的「教授の自由」が肯認されるのは、当然、学力発達面の学習権保障にかかわる場面についてのみであつて、学生・生徒の学習権保障における人間的成長の面についての懲戒処分についてまで及ぶことではなく、懲戒処分の場合はむしろ個々の教官の自律性よりも学校制度的規律として、学部教授会の審議決定、関係者の事前聴聞などの公正手続の履践が強く要求され、懲戒処分についての判断自身が、各教官の主観によつてでなく、大学運営機関によつて統一的になされなければならないとされているのである(教育法学の権威である兼子仁教授の当控訴審での鑑定書―甲第三一号証参照)。」

(本件でとられた「わび状」の前提事実は、後述のとおり法医学科目の履修と直接関連していない教科教育外の問題であり、「わび状」不提出による試験不実施が懲戒的事項であることは原判決も自認するとおりである。)

本件で井上教授以外の他の一五科目の教官が、上告人らに対して「わび状」の提出などを要求せず、二月二七日の行動等も一切問題とせず、無条件に試験を実施したことは、如何に井上教授の措置が恣意的であつたかを如実に物語つている。しかし原判決の論法でいけば、各科目担当教官は、このような「事実上の懲戒」をそれぞれの「自律権」という名目で、各担当教官の判断で思い思いの制裁を何回でも課し得ることとなつてしまうであろう。そのことの不当なことは論を待たない。

4 次に原判決の右の2、<2>の訴外堀本らについての事実認定も、あまりにも一方的と言わねばならない。第一審での北田博久の証言にもあるとおり昭和四五年二月二七日当日法医学を受験しようとする学四学生は、北田らの連絡で予め大学当局の用意したバスに乗車すべく国立病院前に集合するよう手配されていた。しかし、堀本、生駒、船木の三学生はそこには集合せず、受験をしなかつた他の学四学生と同様三々五々法医学教室前に集合したのであり、かつ堀本が同教室前に着いたのは、右バスが来た受験学生らが入室して后である。そして現場に約一時間留まつていた(第一審での堀本豊範の証言)というのであるから、外形的には、右堀本らの行動は、上告人らのそれと何ら変わるところが無い。また右堀本らが本当に受験意思を有していたとすれば、法医学教室に入室して受験に参加することは、比較的容易であつた筈である。何故ならば、当時法医学教室に入室することを実力で阻まれるような状況ではなく、特に機動隊導入后、革マル派などは一たん教室前から引き上げ、別な場所で集会を開いていたのであるから、入室する機会はいくらでもあつたと言えよう。従つて、井上教授が当日受験に参加しなかつた全員についてその個々の事情や弁明を問題にすることなく、「わび状」なしの受験を拒否し続けてきた本件において右堀本らだけを上告人らと区別する合理的な理由は存しないと言えよう。

5 さらに原判決は、2、<3>にあるように、謝罪しない学生に対して試験を実施しないとして区別することは、道徳教育や法医学の基礎理念からみて、合理的差別である旨判示した。しかし

(1) 「受験妨害」や「中傷文書の送付」という事実が仮に認められるとしても、それらは法医学の教科教育と直接関係する事柄では決して無い。受験妨害や中傷文書の送付をしたからその者は法医学の履修が不十分であるなどとどうして云えるのであろうか。原判決は、被告国の主張を鵜呑みにして、道徳教育や法医学の基礎理念(医道)等々で両者を関連づけようとしているが、そのような論法でいけば、法医学に限らずあらゆる医学、あらゆる学問に関連づけられてしまう。そのような論法でいけば、例えば私行上非行があつたとき、そのような人間は道徳教育上問題があるし、医道をわきまえていないからという理屈で、法医学のみならず、あらゆる科目の試験の実施を拒否してもよいということになるであろう。しかし、金沢大学医学部では、それまで本試験、再試験を通じて科目試験に関する内規でいう出席日数の要件以外の理由で試験の実施を拒否するようなことは全く無かつたのである。それは試験の実施について、各科目の教科教育と関連しない理由で、試験の実施を拒否してはならないという当然の条理が行われてきたからである(井上教授ですら、第一審でのその証言で「昭和四五年二月二六日までの時期において、法医学の試験について、出席日数が足りなかつたという理由以外の理由で承認印を押さなかつたことは無い。授業態度を問題にして試験を受けさせなかつたことは無い。私行上の非行を理由にして試験を拒否したことは無い。再試験を不合格者中一部の者について拒否したことも無い」旨述べている―第二回一〇五一一〇項)。

(2) 現に「法医学」以外の他の一五科目の試験が、「受験妨害」や「中傷文書の送付」を問題とされることなく無条件で実施されたことも、井上教授による差別が、大学教官としての良識を越えた非合理なものであることを端的に示していると言わねばならない。さらに井上教授の本件試験実施拒否に対して学内から広汎な批判がまきおこり、無条件試験実施を求める多くの教官の署名が集まり、評議会等でも井上教授に試験実施を勧告し学長もこれを要望するなどの一連の事実は、教育的判断からみても、井上教授のとつた措置が、大学教官としての健全な良識に反したものであつたからに他ならない。

従つて、この差別を合理的なものとするいかなる理由も存しないと言うべきである。

6 けつきよく井上教授が上告人らに対し、わび状不提出を理由に法医学の試験を実施しなかつた行為は、もつぱらわび状提出を拒む上告人らの内心の信条を理由として国立大学における試験実施という社会的関係において差別するものであり憲法一四条に違反していることは明らかである。またもつぱら上告人らの信条によつて教育上の差別を行うものであり教育基本法三条一項にも違反したものといわねばならない。これらの点で井上教授の右行為は国家賠償法一条にいう「違法」な行為であり、上告人らの被告に対する損害賠償請求は認容されるべきである。したがつて原判決には、憲法一四条の解釈の誤り及び判決に影響を及ぼすこと明らかな教育基本法一条一項、国家賠償法一条の法令違背があり破棄を免れない。

二 原判決は、学校教育法一一条、同施行規則一三条二項、金沢大学通則第二九条、金沢大学管理規定第一五条、国家賠償補償法一条に違背し、かつこれらの法令違背は判決に影響を及ぼすこと明らかといわねばならない。

1 金沢大学の学生である上告人らに対する懲戒処分については、学校教育法第一一条は「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒、及び児童に懲戒を加えることができる」と定めている。そして国立大学の監督庁たる文部省の省令である学校教育施行令第一三条第二項は、「懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)がこれを行なう」と規定するとともに、同第三項で退学処分の理由を限定的に列挙している。さらに金沢大学通則(昭和二五年五月三〇日金沢大学規程第一号)第二九条は「<1>学生が本学の秩序を乱し、その他学生の本分に反した行為をなしたときは学長は評議会の議を経て懲戒する。<2>懲戒は、学長の命を受け、学部長または教養部長が、これを行なう。<3>懲戒は戒告、停学、除名とする」と定める。最後に金沢大学管理規程(昭和二七年一〇月一日金沢大学規程第三〇号)の一五条によれば、その第六号で「学生の懲戒に関する事項」は教授会が審議決定するものとされている。

すなわちこれら法令の規定によれば、上告人らに非違行為があつた場合の懲戒処分については、懲戒処分権者は学長または学部長であり、懲戒処分についての審議機関は評議会および教授会であり、個々の教官に懲戒処分を行う権限のないことは明らかである。また懲戒処分の種類も戒告、停学、除名(退学と解される)に限定され、懲戒事由も「本学の秩序を乱し、その他学生の本分に反した行為をなしたとき」に限られている。もちろん右懲戒事由の存否について本人の弁明を聴取すべきことや一事不再理などは条理上当然といわねばならない。

2 本件において、「わび状」不提出による試験実施の拒否は、上告人らに事実上の無期停学の結果をもたらし、卒業が際限もなく引き延ばされる重大な結果を引きおこすものであり、実質は無期停学にも等しい懲戒処分に外ならない。とすれば、本件についても、上告人らに対する右試験実施の拒否の際にも当然懲戒処分権者、審議機関、懲戒処分の種類の限定、一事不再理、本人の弁明の聴取などを定めたこれら懲戒手続についての各法令並びに条理が遵守されなければならないのは当然である。ところが本件は懲戒処分につき何の権限も無い井上教授個人により、本人の弁明も聴取されず、彼の主観的事実認定により、彼の主観的好みに応じた制裁を科せられたものであり、かつこのような制裁には何の歯止めもなく、一事不再理の制限もないというものである。これが右各法令及び条理を踏みにじつた野蛮な私刑(リンチ)であり、教育とは縁もゆかりもない苛酷な処分であることは明らかといわねばならない。この点でも本件の試験実施拒否は国家賠償法第一条にいう「違法」な行為である。

3 しかし原判決は、右についても、次のように判示して右各法令違反を否定し、右「違法」性を否定した。

<1> 学校教育法一一条、同施行規則一三条二項によれば、退学、停学、及び訓告以外の教育措置としての懲戒は、学長、学部長に限らず、各科目担当教官においても、これを行うことができると解される。

<2> 本件で井上教授のとつた措置は、非違行為の指摘と反省の要求を含むところから、批判ないし叱責類似の懲戒行為にあたる。控訴人らは、改めての受講による次年度での本試験を受ける道が残されていたから、無期停学とか、卒業が際限もなく引きのばされたものとは云えない。

<3> 控訴人らが次年度本試験まで、受験を延伸されたのは、自らの責で、昭和四四年度本試験の権利を失つたからであり、自らが被害回避を図るべきであつた。

この原判決の判断にも、到底承服することはできない。

4 まず右<1>について言えば、学校教育法施行規則一三条二項が懲戒のうち「退学、停学、及び訓告の処分は、校長(大学にあつては、学長の委任をうけた学部長を含む)がこれを行う」と定め、退学、停学という重大な不利益をもたらす処分のみならず、通常はごく軽い懲戒処分と考えられる訓告までも、右学長、学部長がこれを行うべきことと定めているのは、懲戒処分は、原則として右所定の機関が、これを行うことを予定したものに外ならない。まして前記のとおり金沢大学通則第二九条は懲戒処分の種類を、戒告、停学、除名に限定するとともに、これらすべての懲戒処分を学長または学部長が行うことを定めており、個々の教官が懲戒処分の権限のないことを明確にしている。原判決は、各科目担当教官が「教育措置としての懲戒」を行い得る旨述べているが、この判断は、右各法令に明らかに違背したものといわねばならない。

このような原判決の判断は、後記5、の教育学的観点からみても適当ではないとされている。しかもこれを懲戒処分について近代法の要求する適正手続や、条理から考えても、懲戒を科するに当たつては、学長、学部長、評議会、教授会という所定の機関が、事実の認定、評価、処分の選択等を行い、また必らず本人の弁明を聴取するなどの慎重な事情認定を行うべきこと、あるいは懲戒処分は規程された種類に限定すべきこと、一事不再理を保障すべきこと等は、当然の原則といわねばならない。それを原判決のように、本件の如き措置を各科目担当教官の「教育措置としての懲戒」として認めることは、結局各科目担当教官の恣意や個々の主観的判断により、彼の思い込んだ事実認識で、本人の弁明も聞かず、それぞれの教官の好みに応じた制裁(時には奇想天外な制裁)を、それぞれの科目において一つの行為につき何回も何回も科されるという著しい不合理を招来することになるであろう。

従つて各科目担当教官の「教官措置としての懲戒」という名で本件の如き懲戒を正当化することは到底許されないのである。

5 さらに、原判決が右のように「教育措置としての懲戒」という概念を定立していることについて、教育法学的に検討してみても、その誤りは明らかである。すなわち

大学教官による試験実施は、学生の学習権(教育をうける権利)の教育専門的な保障にかかわる学校の教務措置であつて、そこにおける教育的裁量権も学校懲戒処分におけるそれとは全く異なり、あくまで教育専門的な成績評価の目的によつて授権されているものである。したがつて、試験の実施に当たつて個別教官が、本件の如く、懲戒的目的に出でて受験を拒否するようなことは、懲戒処分手続の脱法の違法があるとともに、教務上の裁量権の懲戒的濫用として違法なのである。

(1) 学校教務措置としての試験実施、および懲戒処分との区別教育機関としての大学が行う措置のうち、教育専門的評価にもとづく学生の身分取扱い(例えば入学許可、卒業判定)及びそれに連なる教育的処遇(例えば試験実施、成績評価)は、教育法学上「教務措置」と呼ばれる。

この教務措置は、学生の非違行為に対する制裁措置としての懲戒措置とは明らかに性質を異にしており、両措置の間における混同は、学生の学習権の保障に反することとして厳に戒められなければならないとされている。

即ち、教務措置は、人間的能力の教育専門的な発達(つまり学力の向上)に関る分野に対応するものであり、教務措置における教育的裁量権も、各大学における内規及び自治的運用に委ねられると共に、この分野について認められる担当教官の「教授の自由」に裏打ちされた教育専門的裁量に委ねられることとなる。(もつともその裁量権の範囲・限界については一律でなく、試験の採点や具体的実施方法などは、担当教官の教育専門的な裁量に委ねられるが、「試験を実施するか否かは、さほどの専門的判断や考慮を要するものとは考えられず、これを自由裁量行為と解することはできないものといわなければならない」―金沢地判昭四六・三・一〇判例時報六二二号一九頁)

これに対して懲戒措置は、学力の発達以外の学生の学習権保障における人間的成長の面に対応すると共に、各学校の運営上の自治に関する教育的制裁措置であつて、その教育的裁量性は、教務措置におけるような教育専門的な成績評価上の裁量性とは別個・異質のものとなつてくる。(判例上その教育的裁量性は次のように表現されている。「行為が懲戒に値するものかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶべきかを決するについては、当該行為軽重のほか、本人の性格及び平素の行状、右行為の他の学生に与える影響、懲戒処分の本人および他の学生におよぼす訓戒的効果等の諸般の要素を考慮する必要があり……」最大判昭五一・五・二一刑集三〇巻五号一五〇一頁)

さらに懲戒処分は、対象学生の学習権に関し強い権利制限的効果をもつものであるから、その教育的裁量権の行使には十分な公正手続の履践が要請される。そこでこの点に関する学校制度的規律として、懲戒処分は大学にあつては学部教授会などの審議決定にもとづき、かつ関係者に事前聴聞の機会を保障すべきものであると解される。判例もこの点を重視しているように見られる(最判昭三五・六・二八訟務月報六巻八号一五三五頁参照)。つまり懲戒措置の場合は、教務措置で認められる各担当教官の自律的裁量権にゆだねることをせず、右の如き公正手続の履践が要求されるのである。

以上の如く教務措置と懲戒措置は、その目的、認められる教育的裁量権の内容、必要とされる手続などの点で別個異質なものであつて、その間の混同は、教育的裁量権の限界を逸脱し、学習保障権に反する違法を生ぜしめるのである。

(2) 試験実施に関する懲戒的取扱いの違法性

小・中・高等学校の教師は、その教育権限の一環として、相当程度の「生活指導」権を有し、その延長上で、事実上の懲戒を行う個人的権限をも与えられている。これに対し大学教官が成人たる学生に対し生活指導権を有するかどうかは、現行の大学法制上一般的に自明ではない。たしかに学生のカンニングや就職推せんなどに関し、一定範囲においては、個別教官の学生に対する正規の生活指導もありうるであろう。しかし居残り、作業命令のような事実上の懲戒権を個別教官が学生に対して、有するかは疑わしい。学生が「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」行為(学校教育法施行規則一三条三項四号)の故に、学校から懲戒をうけることは、現行の大学法制上一般的には、学長名でなされる懲戒処分によるべきところと予定されているものと解される。そして懲戒処分にあつては、前記のとおり、学部教授会が事前聴聞をへて審議決定すべきものと、その公正手続が要請され、個別教官の主観によつて学生の権利・法益が害されることのないように予定されているわけである。

そこで、他方大学の各教官には、その学問的「教授の自由」として、担当科目の試験に関する教務上の裁量権が認められていることは前記のとおりであるが、各教官がその教務的裁量権を本件の如く学生に対する懲戒の目的で行使した場合には、この教務上の裁量権の行使は次の二つの点で違法と言わざるを得ないこととなる。

その第一は、右の懲戒処分に関する教授会決定手続に対する脱法行為であるという手続法的違法性である。この点は、特定科目の受験拒否といつた個別教官の教務措置であつても、その結果は停学処分の場合と同様に卒業延期など学生の在学関係生の身分に多大の影響をもたらしうることにかんがみるとき、つとめて重視しなければならない。

第二に、教官の担当試験に関する教務上の裁量権は、本来前述のとおり教育専門的な成績評価を目的とするものであるから、それを学生懲戒目的に用いることは、権限濫用(権限の目的外行使)にほかならず、その意味において実体法的にも裁量権の限界の逸脱の違法があると言わねばならない。

以上の点から考えた場合、本件において井上教授が、控訴人らに対して、わび状の提出を要求して、法医学の卒業試験の実施を拒否して、卒業を遷延させた行為は、明らかに教務上の裁量権を懲戒の為に濫用したものであり、右に述べた二つの意味で違法であると言わねばならない(なお、以上については、甲第三一号証の兼子仁教授の鑑定書を参照されたい。)

6 まして本件で科された制裁は、きわめて重大な不利益であつた。原判決は、前記<2>において「批判ないし叱責類似の懲戒行為」であり、再度の受講による「次年度の本試験まで試験が延申される」にすぎないと述べているが、井上教授のとつた措置は、わび状を提出しなければ試験を実施しないということであり、これが単なる批判ないし叱責でないことは明白である。また「控訴人らが当時再度の受講により、次年度の本試験を受けられた」との点については、たとえそのとおりだつたとしてもその効果は一年間の停学処分に等しく重大な不利益処分と言わねばならないが、さらに原判決の述べるが如き再度の受講などということは事実上ありえなかつたのであるから、やはり無期停学に等しいと言わねばならなかつたのである。即ち井上教授が試験実施を拒否していた当時より、後任の何川教授によつて試験が実施せられるまでの間、医学部当局も井上教授も、科目試験に関する内規等の解釈に当たつて、次年度の本試験には再度の受講を要するという考えは一切有しておらず、上告人ら学四の学生に対して、再度の受講を知らせたり、従ようしたり、準備したりなどしたことは全く無かつた。井上教授に至つてはわび状を出さなければ学四生に対する試験を行わない旨表明したとき、授業も当分行わないことを表明したのであるが、右授業は学三生に対するそれしか念頭に無かつたし、控訴人らに対し「再度の受講」について話を交わしたようなことは一度もなかつたのである(第一審での井上の証言、第二回七三、一三七項)。従つて当時上告人らが試験不実施の不利益を逸れるために、井上教授の法医学について再度の受講をするなどということは考えてもいなかつたし、またできなかつたことは明白である。

7 しかもそこで井上教授が問題にした「受験妨害」や「中傷文書送付」は、法医学という教科教育と直接関連したことでは決してなく、上告人らの法医学の履修が十分であつたかという問題とは全く無関係な事柄である(前記のとおり医道とか道徳教育とかの抽象的な理屈で、両者を関連づけることは、とうてい許されない)。これら「受験妨害」等は、仮にそれらの事実が存在したとしても、教科教育を超えた大学の秩序維持の問題に外ならず、これらを行つた学生に対する制裁は事柄の性質上も懲戒処分としてなされねばならないこと明白である(我国の教育法の権威である兼子仁教授も次のように述べている。「もつとも学生のストライキ参加要請行動が、他学生の受講、受験を妨害し、大学の教科教育活動を妨げる結果となつたことを、大学側として問題視する余地はありうる。しかし、それはもはや教科教育ないし教務上の判断事項ではなく、広義の教育問題ではあつても、まさに大学運営上の秩序規律に関する問題であるから、教授会の議を経て、大学全体として決定すべき懲戒処分によつて対応すべきことになる(学校教育法施行規則一三条二・三項・六七条)。その結果、既述のとおり停学以上の処分の効果として対象学生の受験が否認されることともなりうるが、これが大学として採るべき正規の教育的措置であるとすれば、科目担当教官がただちに関係学生の受験を否認する態度を採ることは、懲戒処分制度の脱法的行為であつて、教育評価権の範囲を逸脱するところであると言わなければならない。」―甲一一「鑑定書」)。従つて原判決が前記<3>の如き論法で、上告人らの主張を排斥することはとうてい許されない。

8 以上の各点から考えて、井上教授が上告人らに対し、わび状を提出しないことを理由に試験の実施を拒否した行為を原判決が適法と判断したのは、前記学校教育法一一条、同施行規則一三条二項、金沢大学通則第二九条、金沢大学管理規程第一五条に違背し、かつ国家賠償法一条にも反した判断といわねばならず、かつこれら法令の違背は判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、原判決は破棄を免れない。

三 原判決は、憲法第一九条に違背し、ひいては国家賠償法一条に反して、且つこれらの違背は、判決に影響を及ぼすことが明らかといわねばならない。

1 原判決は、井上教授が上告人らに要求した謝罪文は単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものであつて、これを間接的に強制したからといつて、憲法一九条の保障する良心の自由を侵害するものではないと解するのが相当であるとして、御庁昭和三一年七月四日大法廷判決(民集一〇巻七号七八五頁)を引用した上、右謝罪文要求の措置に違法なものはないとして、国家賠償法に基づく上告人らの請求を棄却している。しかしながら井上教授が本件試験の実施と引換えに上告人ら学生に要求した謝罪文ないし謝罪要求は、上告人らの憲法第一九条に保障された思想・良心の自由を踏みにじる違法なものであり、かかる不法な謝罪要求と引換えに本件試験の実施を行う旨宣言し、かかる違法な謝罪要求に応じなかつた上告人らに対し、右謝罪要求に応じなかつたことを理由として試験実施をしなかつた右井上教授の本件所為は違法・不当なものであることは、明らかである。

2 まず右井上教授の謝罪要求が、憲法第一九条の保障する良心の自由を侵害するものであることは当然である。右井上教授の要求にかかる謝罪文は、上告人らにとつては承服しがたい事実についての承認と、その非を認めることを内容としており、上告人らの行動については自らの行動を全部否定することを要求されたのである。他方上告人らは、本件訴訟提起それ自体でも明らかなように、右井上教授の試験日当日の行動においても、決して受験を妨害したという認識には立つておらず、この点で受験妨害という形で事実の認識を迫られ、且つ謝罪要求を求められることは、自らの認識と良心に反することとなることは、明らかである。

更に右謝罪要求自体が強要されることなく、あくまで学生の自由で独立した人格を認め、何ら圧迫など加えない状態で求めるなら格別(そのようにしてこそ教育上の配慮として評価できる余地もあるが)右井上教授のように試験を受けたいと希望している学生に、試験実施につき一定の権限を有する公の機関が試験を不実施を取引材料として右のような謝罪を求めること自体、憲法第一九条の保障する良心の自由を侵害する行為であつて、国家賠償法第一条に該当するものといわなければならない。

3 原判決は、右井上教授の要求した謝罪文が、良心の自由を侵害をしない理由として右謝罪要求は単に「事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度」のものであるとする。しかしながら右井上教授の要求した謝罪文が、原判決のいうように「事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するに止まる程度」であるとはとうてい認められないものである。乙第二八号証は井上教授に要求されて、書かされた「謝罪文」の一つであるが、その文中にも「暴行を加えられた学生に対して謝罪する」旨の文言があり、又乙第二九号証にも同じく「暴力的行為であつたことを深く反省し、卒業を受けられた人々、大学当局並に社会の皆様に深く陳謝の意を表する」旨の記述があり、更に又同様の乙第三二号証には「私ら三名の者は、その後自己の所為の如何に誤つていたかを悟るに至り、深く慙愧致しております。大変お怒りのこととは存じますが、右のとおり反省致しておりますので、何卒ご容赦願いたく、茲に謹しんでお詫び申し上げます」とあるように、井上教授の要求した謝罪文は、右乙第二八、二九、三二号証でいうなら三名の学生が、試験の当日およびその前後の受験遂行の妨害およびその後の就職先への文書送付などの行為が、正当ではなかつたことの非を認め、自分たちの行動の基本となつた信条が悪かつたことを承認し、その考えを改めることを誓約することまでも含む、全人格的な且つ倫理的な判断ないし、信条の表明である。井上教授がこれと同趣旨の謝罪を上告人ら学生にも同様に要求し、右謝罪を実行しない以上は試験を実施しない旨述べて右謝罪を強要したのであるが、かかる謝罪要求が、「単に事態の真相を告白し、陳述の意を表明するに止まるという程度を越えて、その当事者の内心的自由に立ち入るものであることは云うまでもなく明らかである。

4 原判決が、右のように「単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するに止まる」謝罪文ないし謝罪要求については、憲法一九条には違反しないとするのは、原判決も引用する御庁昭和三一年七月四日大法廷判決の判例があり、これに依拠するもののようであるが、本件に於ては、右大法廷判例は妥当しないものというべきである。すなわち右判例の事案は、他人の名誉を毀損した者に対して、被害者の名誉を回復するに適当な処分としての謝罪広告を新聞紙等に掲載すべきことを命ずる裁判所の処置が憲法第一九条に違反しないかが争われた事案であり、右大法廷判決の多数意見はこれを消極に解する根拠として謝罪広告の内容が「公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めた」にすぎず、「屈辱的若くは苦役的労苦を科したり倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものではない」と述べ、更に、謝罪広告も時にはこれを強制することが債務者の人格を無視し、著しくその名誉を毀損し意見決定の自由及至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもあり得ることを認めた上で、当該謝罪広告の内容に於ては、その程度に至らないとの判断を示しているものである。

右事案について本件謝罪文と対比してみると、謝罪広告に於ては、民事訴訟の強制執行の一方法として公表事実が虚偽且つ不当であることを発表すべきことを求めたのであるから、発表者の内心的な葛藤は少ないのに反して、本件上告人らに求められた謝罪文は学生対教授と云ういわば全人格的な交流の場で、教育上の配慮として求められたのであるから、謝罪する側の内心的な苦脳はきわめて大きいものと評価せざるを得ない。又新聞に於ける謝罪広告に於ては、広告者の内心的な内容如何にかかわらずその謝罪広告それ自体に意味を持つものであるから、極言するなら広告側の良心云々は、それほど深く問われないと云うことができるのに反し、本件のように教育の場で求められた謝罪文は、まさに謝罪する側の内心・良心それ自体が問題にさるべき場合であり、謝罪それ自体より謝罪の内容がきわめて密接に謝罪者の良心と関連を持つてくる訳であるから、前者との対比に於ては、比較にならない程の良心の自由それ自体が問われるべき事案である。

5 前記大法廷判決の多数意見に於てさえ、謝罪広告に於てさえその程度をこえる時には良心の自由を不当に制限される場合のあることを認めているのであり、これに加えて右大法廷判決には、少数意見として「謝罪・陳謝の文言は、本人の信条に反し彼の欲しないかも知れない意思表明の公表を強制する点に」(重水裁判官の意見)「人の本心に反して、事の是非善悪の判断を外部に表現せしめ、心にもない陳謝の念の発露を判決を以て命ずる点に」(藤田裁判官の意見)良心の自由を侵犯する旨判示するなど少数(反対)意見が存在し、学説に於ても有力な学説が右多数意見に反対し(宮沢俊義、長谷川正安、幾代通など)右少数意見に組して違憲説をとつているのが現状である。

そうであるとすると、前記大法廷判決は必ずしも本件事案の正当な判断の前提とはなりえないばかりでなく、右大法廷判決のような判断内容それ自体としても、憲法第一九条の良心の自由が保障される場としては改めて問い直さるべきものと信ずる。

更に良心の自由の意味についても、それが「沈黙の自由」を含むかについて右大法廷判決の少数意見は明確にこれを肯定しているが、多数意見では、この点の明らかな解答をえられない。学説に於てはこの点殆んど総ての学説は、沈黙の自由を保障する。本件に於てこれをみると、まさに上告人らの自由が保障されるか否かの事案である。すなわちその要求された謝罪文に対して、上告人らの内心に於てあるいは賛同する部分があるかも知れないものの、試験実施と引きかえにそのような謝罪文の提出そのものを要求される点に、上告人らの沈黙の自由を侵害されるものであることは明らかであつて、かかる沈黙の自由をふみにじつて、更にその上に本人の意思に反する内容の謝罪要求をされること自体、まさに上告人らの全人格的存在の否定につながるものであつて、原判決は、この点でとうてい容認できないことは当然である。

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